ラクロスの歴史

ラクロスの歴史

語源
ラクロス=Lacrosse=la crosse=笏杖(シャクジョウ)
北米の開拓者達が、インディアンによって広く各地で行われている競技を目撃しており、この競技を「ラクロス」と命名したのは、フランスの開拓者達。インディアン達の使っていたスティックが、カトリック司教が教会の象徴として儀式で携帯した「笏杖(シャクジョウ=la crosse)」に似ていたため命名された。
この競技がはじめて「笏杖(シャクジョウ=la crosse)」と文章に表現されたのは、1636年のイエズス会宣教師のジャン・ドゥ・ブレブフによる。ブレブフが、オンタリオ州サンダーベイ近くでヒューロン族がこの競技に興じているのを見て、教会の上司への報告書にこの言葉を使った。ただし、競技の技術的な側面にはまったく触れておらず、技術的な記述の最初は、1721年にアルゴンキン族が行った競技に立ち会った別のイエズス会宣教師ピエール・ドゥ・シャルルヴォアによるものである。
インディアン達の競技
インディアン達の行うラクロスは、集団ゲームだった。
大抵1チームが100人ぐらいからなり、時には1000人以上になることもあった。
ゴール間の距離は、通常500ヤード〜0.5マイルだったが、場合によっては数マイルも離されることもあった。ゴールの形状も、部族によって異なり、一本の木や岩をゴールとしてそれに当たれば1点としたものもあれば、2本の柱をゴールとして使いその柱の間を貫通した場合得点とする部族もあった。
また、その当時は、サイドラインというものがいっさい無く、競技は野っ原全体で繰り広げられた。
使っていた道具は、一方に網の輪のついた3〜4フィートの長さの棒だったが、全ての部族で統一されていたわけではなく、ある地域では両手に1本ずつ握り、2本の短い棒を使っていた。
開拓者や宣教師達の報告によると、1日がかりの競技であってもめったにボールが地面に落ちることは無かったと述べられている。ちなみに使われていたボールは、今日のテニスボールぐらいの大きさで木か鹿皮に鹿の毛をつめたものだった。
ゲームの時間は、通常日の出に開始し日没に終了するというもので、それが2日も3日も続くことがあった。ちなみに、勇敢な選手が全力を発揮しないようなことがあると、部族の女性達がこの選手の所まで駆け寄って、ムチで殴ったりもしたそうだ。(怖え〜〜〜!!)
ラクロスの位置付け
インディアン達にとってのラクロスは、単なる娯楽スポーツとしてだけでなく、「戦士の訓練」としても行った。(これは以外と有名な話ですね)
この競技の荒っぽさが、戦争の肉弾戦の状況と似ているため、訓練になったのだそうだ。さらにゲームの長さが戦争や狩りに必要な耐久力を培うのにも役立ったのだそうだ。
近代ラクロスの始まり
植民地時代初頭、イエズス会はニューヨーク州一帯のイロコイ・インディアンの6つの種族とヒューロン・インディアンに普及活動を行っていた。キリスト教に改宗したこれらの部族の人々は、残忍な部族からの仕返しを恐れ、カナダのモントリオールに近いコーナワガや、コーンウォールに近いセントレジスといった場所へ移住した。そしてこれらのカナダ移住インディアン達が、近代ラクロスのスティックの原型を作った。
その後は、アメリカ独立戦争後、イギリス王室の保護下で平和な生活が送れ、1790年代にはモントリオール地区で行われるラクロスは、かなり変化していった。
チームは60人に限定され、競技場の大きさも規定されていった。ゴール間が500ヤードとなった。
戦士の訓練的側面が強かった競技が純粋にスポーツの形に変わって行った。
1825年までには、インディアン達は50ヤードの長さの競技場で、1チーム7人でゲームを行うようになった。そして部族を代表するチームの一員になることが偉大な名誉ともなったようである。
ある記録では、1740年にフランスの開拓者達がこの競技をインディアンたちと行ったとされているが、本格的に白人がラクロスに取り組むようになるのはそれから100年も経ってからのことである。
開拓者の間でラクロスが本格的に取り組まれるようになったのは、1830年代以降。1834年にモントリオールの金持ち達が企画し、コーナワガ・インディアン達がモントリオールで模範試合を行い、これが新聞で詳細に報道されたのがきっかけとなり、白人達の間でも試しにやってみようという機運が高まったということだ。その後は、1844年モントリオール地区のスポーツ振興の一環としてインディアン対白人の試合が行われたが、5人にインディアンチームが7人の白人チームを一方的に破った。白人が同人数でインディアンのチームに初めて勝つことが出来たのは、7年後の1851年のことである。
こうして、白人達もラクロスに取り組むようになり、1856年、モントリオール・ラクロス・クラブが発足。このクラブの会員達が色々な工夫をし、ゲームの方法に改善を加えた。
例えば、それまでインディアン達が集団で攻撃するために袋のようにふくれた網を使っていたのを、スティックを長くし、ガットできつく締められた三角形の広い網を使うようになった。この結果、パスとチームプレーが重視されるようになり、新しい攻撃法で白人達が成功を収めた。次第にインディアン達もこの攻撃法をまねるようになって行った。
こういったわけで、モントリオールが近代ラクロスの発祥地となった。
近代ラクロスの普及
カナダ自治領が制定された1867年の同じ日に、ラクロスはカナダの国技と宣言された。
その年の初めには6つしかなかったカナダのラクロスのクラブも、年末には80ものクラブに増加した。1867年に作られたクラブの中にあった、北部カナダ・トロント大学のクラブが、初めてラクロスを行った大学チームである。
その後、モントリオールの歯科医、W・ジョージ・ビヤーズは1867年にカナダ・ラクロス協会を発足させ、競技のルールを明文化した。そのとき制定されたルールの概要は以下の通り。

<クロス>
どんな長さでも可。ボールが入っていないときは平らになっている。
<ボール>
インドゴムのスポンジ製。周囲は8インチ以上9インチ以下
<ゴールとフィールドの長さ>
チーム・キャプテン同士で合意された長さ(200ヤード程度を推奨)。ゴールの柱は6フィートの高さで柱のてっぺんに旗が取り付けられ、ゴールの幅は6フィート。
<ゴール・クリース>
ゴールの柱6フィート前の線。ボールがこの線の内側に入らない限り、敵側はこの線を超えてはならない。
<コーチ>
各チームとも試合をまとめていく“競技場内キャプテン”を持つ。もしこのキャプテンが選手ではない場合は、このキャプテンはクロスを持ってはいけないし、選手のユニフォームを着てもいけない。
<チーム>
12人により構成される。ポジションとしては、
ゴールキーパー
ポイント
カヴァーポイント
センター
ホーム
その他はフィルダー。
ひとたび試合が始まったら、選手の交代は出来ない。これは選手が怪我をして動けなくなった場合であっても同様。
<マッチ>
3ゴール、もしくは5ゲーム中3ゲームを先取した方が勝ち。キャプテン同士で別に取り決めた場合はこの限りではない。日没等で仮にどちらのチームも3ゲーム取れない場合は、試合は未完了とみなされ引き分け。この場合でも、キャプテンが話し合い、2対0で一方が勝っている場合は、2得点しているチームの勝ちとする。
ゲームごとに自陣を交換する。
ゲーム間には5分以上10分以内の休憩時間を設ける。
<<禁止事項>>
手でボールに触ること(キーパーを除く)。
スパイクのついた靴を履くこと。
クロスでぶつけること、つまずかせること、おどすこと。
ラクロスの世界への普及
カナダでスポーツとしての近代ラクロスが発祥すると、徐々に世界へ広がって行く事となる。
まず、1867年に、インディアンチームがイングランド、アイルランド、フランス、スコットランドに遠征をした。その結果、イングランドでも関心が高まり、ブラックヒースとリッチモンド、リヴァプールにクラブが誕生し、1868年には全英ラクロス協会が誕生した。イギリスの協会では、競技時間に制限を設け、またゴールのてっぺんにテープをはり、ゴールの標的を明確にするルールが採用された。
アメリカでは、1867年、サラトガスプリングスの遊園地でカナダから着たインディアン達が競技をやって見せ、その後すぐに模範試合が行われ、その結果、アメリカ最初のラクロスクラブである、トロイモホーククラブが設立された。
南半球では、1874年にオーストラリアに紹介され、1878年にはニュージーランドへ広まった。
ちなみに、アメリカでNCAA(全米大学体育協会)のラクロス競技が始まったのは、1971年と、アメリカに近代ラクロスが伝わってから約100年後。それまでにラクロスを取り巻く団体は設立・合併・解散等を繰り返しながら行われる試合のルールが現在のように定まってきたようである。
その後、ラクロスはアメリカを中心に発展を続け、ジュニア〜ハイスクール〜カレッジ〜NCAA〜クラブ、そしてプロリーグまで広がりを見せている一方、カナダでは、アマチュアのフィールドラクロスは衰退した。
日本へ、そして東北へ
さて、こうしてカナダから、ヨーロッパ・アメリカ・オセアニアに拡大したラクロスが、日本に伝わったのは1980年代のこと。1986年に日本で初めてのチームが慶應義塾大学に誕生したのが始まりとされる。
その後、1987年7月に日本ラクロス協会が発足。翌年3月には日本学生ラクロス連盟が設立された。
本格的な学生リーグが開催されるようになったのは1988年のこと。そして1989年には初の国際親善試合も行われている。クラブチームについては、1990年11月に日本社会人ラクロス(クラブチーム)連盟が発足。本格的に日本が世界の舞台に登場したのは、ワールドカップへの正式参加からで、女子は1993年の第4回大会から、男子は1994年の第7回大会からである。
東北地区では、東北大学にラクロスチームが出来たのが1989年。
公式戦が行われるようになったのは、1994年から始まった、東北学生リーグからだろう。
ちなみに、岩手大学はいつからか?というと、私が入学した1995年の時点で、すでに4年生にラクロス同好会の先輩がいた事から、遅くとも1992年、あるいはその前年度からラクロスチームが発足していたことになる。ちなみに男女ともほぼ同時期の発足と考えられる。(推測が多くてすいません)
ただし、その後、女子ラクロスは現在まで継続的に活動を続けているが、男子ラクロスはメンバー不足等の関係で1997年〜98年に活動を休止(ちなみにそのときの最後の男子部長が私でした(泣))、2005年に東北ラクロスリーグに復帰するまで約8年間の空白の時代がありました。
東北の、岩手の今後は
見事に復活を遂げた岩手の男子ラクロス。
参加初年度はもちろん勉強することが多かったはず。
女子ほど先輩に恵まれていない分、今後も試行錯誤が続くはず。
でも、岩手ではまだまだラクロスが普及していないということは、まだまだパイオニアになれるチャンスであるということ。そして広げていく余地があるということ。
5年後・10年後にはOB・OGのクラブチームも含めて、県内だけでリーグが組めるような普及をして、さらには東北リーグを制覇するほど盛んな地域になってて欲しい・・・・・・と思う。